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『すずめの戸締まり』感想。(ネタバレあり)

『すずめの戸締まり』、3回観ました。面白い。これまでの新海誠作品で一番好きかもしれない。だからなにかこう、まとまった論考みたいなものを書こうかと思ったんですけど、自分の力量ではまとまり切らなかったです。でもほっとくと気持ちが萎えそうなので、結局雑多に好きなシーンなんかを書き残して置こうと思う。

タイトルコールのあと、鈴芽の部屋に草太が来るでしょ。ちょっとお世辞にも整理されているとは言い難い。アニメ演出で部屋の中はその人の心の内を表しているとか言われますから、割と普通の女の子に見える鈴芽の心の内が、実は荒れている状況が垣間見える。そこで散らばった本を静かに整えて本棚に仕舞う草太の動作が、この後の役割を思わせる。こういう描写が結構好き。

本作のキーアイテムである鈴芽の椅子は脚が3本しかなくて、劇中鈴芽が「気付いたら3本だった」みたいなことを言うけれど、震災の前は4本だったわけだから、椅子は鈴芽自身で、失くした1本は母を代表とする「震災で失ったもの」だろうなあと思う。

鈴芽に限らずこの映画に出てくる登場人物は皆なにかしら欠落を抱えている。鈴芽の叔母、環は劇中でもその心情が吐露されるが、そもそも実の姉を亡くしており、年齢的にはまだ健在でもおかしくない両親も姿が見えない。草太は完璧超人に見えるけど、おじいさんが「育ての親だった」ことから察するに、何らかの事情で両親はいなかったようだし。神戸のスナックのママ、ルミは二児の母でありながら、夫の存在が感じられない。芹沢のスポーツカーは露骨に壊れているし。

愛媛の千果だけはパッと見そういうのがなさそうにも見えるんだけど、逆に考えると「同世代の友達がいない」のがそれかもしれない。後ろ戸になってしまった学校に通ってたと語っているので、廃校になって散り散りになってしまったとか。そうだとすると、鈴芽に異常に執着するのも辻褄が合うというか。

鈴芽の椅子の脚が3本なのは、こうした登場人物たちの「皆なにかしらの欠落を抱えている」ことの象徴ではないかとも思うんですよね。

その中でも大きめの欠落を抱えているのがやはり鈴芽で。「君は死ぬのが怖くないのか!?」の問いに、食い気味で「怖くない!」と答えるシーン。あそこはなんか、その欠落を物語ってて凄味を感じたなあ。その後に語られる、生きるか死ぬかなんて運がいいか悪いかでしかない、って台詞も合わせて考えると、眼の前で人が死に、なおかつ自分と相手が入れ替わってても何らおかしくない、そんな状況がたくさんあったんじゃないか。そしてまた、その人達の死に責任を感じていて、誰かの命を救うことでその贖罪を果たそうとしているような。

そうした欠落を、旅を通じて、様々な人に出会い、愛情を受けることで埋めていく物語だと思う。

これはちょっとこじつけかもしれないですけど、椅子との関わり方も、旅の途中で少しずつ変化していっているのが面白い。愛媛ではそばにいるだけだったのが、神戸では座り、東京では足場にしてる。椅子は座られるためにあるけど、最初はその正式な用途になく、神戸でようやく正しい使われ方をする=関係性が成熟する。とは言え子供用の椅子だから、子供が成長してしまったら本来の用途は失われ、少し背伸びするための足場になる、というような。

東京での川に飛び込むシーンも気合いの入った作画で素晴らしかった。あそこのシーン、橋の上に残る靴は女子高生としての自分を脱ぎ捨てた瞬間で。東京の上空でやらされるのは、イニシエーション、通過儀礼ですよね。大勢の人の命と草太の命を天秤にかけて、草太を犠牲にした……ようにも見えるけど、別に挿さなくても草太が助かるわけじゃなくて。あそこでやらされたのは、草太が要石になっているという現実を受け入れた。と同時に、あの椅子は母の形見でもあるわけですから、母がもう帰ってこないという現実とも向き合わされている気がします。

通過儀礼は水に飛び込むことで生まれ直すわけですが、ここでは水中に落ちるまでは少し間があり、だからこそ靴が片方ずつ脱げていて、それは儀式の始まりと終わりを表しているんじゃないでしょうか。

東京を出るとき、鈴芽が草太の靴を借りますよね。あれは今まで椅子だった草太が、靴に変わった(また踏まれてる)。椅子はその場で背中を支えるアイテムだけど、靴は遠くまで歩くための相棒なので、鈴芽が成長し自分の脚で歩けるようになっていて、草太はそのサポートをしている、という感じに見える。また身につけるものでもあるから、一体化しているとも取れる。母の形見であった椅子に草太が乗り移って、母=草太となり、草太の形見(?)である靴を鈴芽が履くことで母=草太=鈴芽となり、最後に母(と誤認された鈴芽)から幼少期の鈴芽に椅子が渡され、円環になっているのも面白いなと思った。

ここの髪を縛る仕草もカッコ良かったな。臨・戦・態・勢! という感じで。要石をぶっ刺した瞬間に髪がほどけるのも良かったです。

環の話。鈴芽の叔母さん、中盤で鈴芽に暴言を吐くシーンがあって、そのあとわだかまりが消えて和解する、みたいな流れになる。このキャラに対して、言っていいことと悪いことがあるだろう、許せんみたいに言われてるのとかもみたんだけど、振り返ってみると、これ我々だよなーと言う気もするんですよ。世代的にも近いし、軽率にも鈴芽に「うちの子になろう」なんて言ってしまうんだけど、あの震災の時、地震津波もそうだけど、原発事故が起きて、福島の原発は東京の電力を担ってるってわかって、東京に住んでた私は責任を感じたりしたんですよ。で、なんだか申し訳ないような気にもなり、できることはなんでもしてやりたいなんて思った。でも時間が経つとそう言う気持ちも忘れてしまって、日々生きることに必死で、そうした我々の一部は心無い言葉を発してしまったりする、そんなことはきっとあっただろうなって思う。なにか理由があったからと言って、言っていいことと悪いことがあるのはその通りだし、環の発言はその境界を超えているかもしれない。許されないし、責められるべきとも思う。けど、それだけじゃないと言うのもまた本当なんだろうなって。

この辺は「忘却に抗う」という、『君の名は。』であったテーゼが継続しているとも思うな。

最後にタイトルの話。珍しくキャラの名前が入ってて。そもそもなんで主人公の名前が「すずめ」なんだろうと。

めちゃくちゃ序盤の話に戻るんですけど、一番最初の環との会話。「鈴芽、起きた?」「鈴芽、今日はお弁当忘れんでね」「鈴芽、私今夜ちょっと遅なるわ」と、毎回鈴芽、鈴芽と付く。ここのシーンって別に他のキャラいないから、つけなくても通じると思うんですよ。ダイジンも毎回最初に「鈴芽」って呼びかけからスタートします。

全編観たあとに、ああそうか、と一人納得してしまった。

「すずめ」と「すすめ」がかけられているんだと。だから「すずめ」と声に出すことが重要視されているし、タイトルの『すずめ』はひらがななんだなと。いや、主人公の名前はアメノウズメから取った、とパンフには書いてあるんですけど。ダブルミーニングということもあるしw

君の名は。』の頃はまだ5年で、「こうだったらよかった」というような、ifの世界の物語で、鎮魂と祈りの物語という感じでしたけど。震災から来年で12年。法要としては一区切りです。相変わらず傷は癒えない。震災以外にも色々なことがありました。でも、多くの人はなんらかの欠落を抱えたまま、それでも日々を生き、ちゃんと大人になっている。だから我々も、みんなも、前に進みましょう。そういうメッセージが込められている作品なんじゃないかなあと。そんなことを思いました。