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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン雑記2

空を飛ぶ手紙が意味するもの

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの雑記です。

手紙が空に舞い上がる演出、結構「大事なものなのにまずいですよ!」みたいに言ってる人が多くて、いや実際そうなんですけど、演出としてはドラマチックなのになーとも思ったので自分の考えをまとめてみます。


まず最初は冒頭の現代パートでデイジーがアン・マグノリア宛ての手紙を読むシーン。冒頭で風に飛ばされてデイジーの手から舞い上がった手紙は、空を飛んでライデンシャフトリヒのヴァイオレットの居室に行きます。

これって言うのは、デイジーをライデンに導く演出なんですけど、じゃああの手紙ってなんなのと。ぼくはこれ、ヴァイオレットそのものだと思うんですよね。手紙を題材にした物語だから、この物語では手紙は非常に重要な意味を持っていて、人の書いた手紙はその人の一部として扱われる、というような。だから、ヴァイオレットがデイジーを、手紙を使ってライデンに導いている。

次に手紙が飛ばされるシーンは過去パート。ヴァイオレットはエカルテ島行きの船に乗り、ギルベルト宛ての手紙を書きかけるんですが、この手紙は風に飛ばされ、海に消えてしまう。これさりげないシーンなので見落としてしまいそうなんですけど、実は現代パートに戻ったときに、再びデイジーが現れるのはこのエカルテ島行きの船の上なんですね。少し戻りますが、現代パートで2回目にデイジーが登場するのは、ライデンシャフトリヒのクラウディア・ホッジンズ郵便社に来た時、つまり手紙が消えた場所でした。手紙が消えた場所にデイジーは現れる。手紙はセーブポイントかなんかなんでしょうか。でもそこに手紙というヴァイオレットの分身がいたから、デイジーを導けた、みたいな解釈もありかなーなんて。

最後のひとつはとても印象的なシーン。ヴァイオレットがギルベルトに宛てた最後の手紙を、ギルベルトは風に飛してしまう。おいおいさすがに大事なものだろ! って思いますけれども。この手紙はエカルテ島の上空高くに舞い上がります。ここがゴールですよーみたいな感じなんじゃないかなー。デイジーとそれを導くヴァイオレットの旅は、エカルテ島に辿り着いたことでゴールを迎えるわけです。

で、ここで一般論の話をすると、物語ってのは、しばしば旅に例えられるんですね。旅に出て、色々なことを経験して、成長し、帰ってくる。この帰ってくるってところが重要で、元の状態に戻っているんだけど、その旅を経験したことで、少しだけ違う自分になっている。

例えばガルパンだと、主人公たちの乗ってる戦車・IV号戦車の状態で表現されるんですね。この戦車は倉庫で発見されたとき、右の履帯がちぎれた状態で発見されるんですけど、最終話で最後の戦闘が終わったとき、力を出し切って右の履帯が切れた状態で幕を迎える。主人公たちあんこうチームの旅は、ここで終わりを迎えましたってことですね。

TV版のヴァイオレット・エヴァーガーデンだと、モチーフになっているのは手紙じゃないかなって思う。ヴァイオレットが書いた手紙は、冒頭でライデンシャフトリヒの上空に舞い上がりますが、最終話では航空祭のイベントとして、空から宛先不明の手紙がばら撒かれる。それっていうのは、ヴァイオレットが書いた報告書のような手紙は物語を通じて、さまざまな経験をすることで、人の想いが乗った「手紙」となってヴァイオレットの手元に帰ってきた、というような演出じゃないかと。

そういう視点で観たとき、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンは元の場所に帰れたかというと、帰って来てるよなーって。

デイジーマグノリアは、両親に手紙を出します。先ほど上で書いたように、この物語において、手紙は書いた本人の分身でありますから、デイジーは手紙の形になって、マグノリア家に帰ったんじゃないかと。で、それと同時にですね、ヴァイオレットもマグノリア家から手紙の状態でエカルテ島まで旅をしていまして。最後はデイジーの手紙と一緒に、切手としてマグノリア家に帰ったんじゃないかと思うんですね。

デイジーはこの旅でひとつ成長し、手紙の形で両親に想いを伝えることができた。
ヴァイオレットはもう手紙は書けないけれども、切手という手紙を象徴するような存在になって、人の心を繋ぎ続けていた。

そういう演出なんじゃないかなーと思ったりしてます。