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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン感想

ヴァイオレットは世界の美しさに気付けたのか

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想です。
ネタバレなので一応「続きを読む」で閉じてます。
殺人人形として育てられたヴァイオレットは、要求の方向性が限定されるためわかりづらいですが、基本自分のこと(=ギルベルトのこと)にしか興味がない人です。ギルベルトはそんなヴァイオレットに教養と愛情を注ぎ、世界の美しさを知る一人の「人間」にしようとしました。テレビ版はそのギルベルトの言葉を頼りに、徐々に人の気持ちを知っていく、という内容でしたが、果たして今回の劇場版で、ギルベルトのその願いは叶ったのか。そういう視点での感想です。
ヴァイオレットの登場は歌姫イルマが海への賛歌をささげるシーンで始まります。イルマは恋人を戦争で亡くしている人ですし、のちにエカルテ島でもこの歌は死者を弔う意味で使われていますが、歌は海を賛美する内容で、命を育む場であると。つまりこの物語において、海は生命の源であり、生者は海から来て、死者は海に帰る。
ライデン市長に話しかけられるシーンでは、ヴァイオレットの背景に大写しで海が描かれて、これヴァイオレットは海の中にいるという描写なんじゃないかなと思いました。まだ死んでないけど、一歩間違えて海に落ちれば死んでしまう、そういう境目にいます。船にギルベルトの遺品(死んでないけど)をもらいに行くシーンでは、態勢を崩しそうになるのをディートフリートに支えてもらって立て直す描写があります。あれは海に落ちそうになったのを手助けしてもらったって意味じゃないか。お兄ちゃんは海軍大佐なので、海には強い。
エカルテ島の灯台で、ヴァイオレットとホッジンズの一行はユリス危篤の報を受けます。まだ依頼された手紙を1件書けていない、約束したのだ、とライデンに帰ろうとするヴァイオレットですが、外は嵐、船は明日の朝まで来ないと告げられ、窮地に追い込まれてしまう。そこで初めて仲間の存在を思い出す。同僚でありよきライバルでもあるアイリスであれば、代理を頼めるのではないかと。最後にユリスとリュカの想いを伝えあうのは、手紙(≒自動手記人形)ではなく、電話(≒ライバル)である、というのもこの関係を強調している演出だと思う。
ユリスが息を引き取り、一連の騒ぎが終わった後、ホッジンズが「明日はギルベルトをぶん殴ってでも……」と言うと、ヴァイオレットは「いえ、少佐を殴るのなら私が……」と冗談を言うんです。これ、最初は「おう、やったれやったれ!」とか思ってしまったんですが、ヴァイオレットがかつて冗談を言ったことなんかあったか? と考えると、非常に意味深いやり取りだなと。
ユリス絡みの一連の騒動で、ユリスがヴァイオレットとギルベルトの再会を「よかった」と言ってくれたこと、アイリスとベネディクトがヴァイオレットの頼みだからと本気でユリスのために奔走してくれたこと。そうしたことから、自分がいかに身近な人に大事にされているか、守られてきたかということに、初めて思いを馳せ、気付かされたのではないでしょうか。そして目の前のホッジンズがずっとヴァイオレットを励まし続け、今なおギルベルトとの間をなんとかしようとして気を悩ませていることに気付き、少しでも気持ちを軽くさせようと、冗談を言った。この冗談と、そのあとに言ったセリフ、そしてここで書かれたと思われるギルベルトへの手紙が、たどり着いた「答え」なんじゃないかと。
のちに読み上げられる手紙には「あなたの言葉がみちしるべになりました」とある。海で迷ったときのみちしるべは灯台ですよね。だからヴァイオレットが目指していたものは灯台で、「あいしてる」を知り、ゴールにたどり着くのはエカルテ島の灯台なわけです。
ここから描写のトーンが変わり、エンディングへと向かっていく。エカルテ島の美しさが描写され、ブドウは収穫の時期を迎える。紫のブドウの粒は、大人になって成熟したヴァイオレットを表してて。ギルベルトが導きたかった場所に、ヴァイオレットは辿り着きましたよ、と。そういうことだったんじゃないでしょうか。
最後ヴァイオレットが船から海に飛び込むんですけど、あれもうちょっと早くギルベルトが来れば飛び込まなくて済んだじゃんって話なんですけど、あれはテレビ版7話で湖に飛び込むシーンのセルフオマージュだと思うんですけど、あそこで一度海に飛び込むことで罪の炎で燃えていたヴァイオレットの炎が消え、灯台(=ギルベルト)目指して上がってくることで一度死んで生まれ変わったという描写でして、やっぱり必要であったと。やはりよくできてるなあと、感心することしきりでありました。