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響けユーフォニアム3期1話の題字について

 シーズン3の「SOUND! EUPHONIUM」の題字が出るところ、とてもかっこ良く感じてちょっと考えてみたのでメモ。

 比較のために過去作品の「SOUND! EUPHONIUM」が表示されるところ全部見てきたんですけど、印象に残ってるのは直近で見てたアンコン編で、黒背景に手書き文字っぽいカラフルの色の文字になっているもの。同様の表現が使われているのはテレビ版シーズン1と届けたいメロディでした。あと全体を通じて、全部大文字になっているのは今回が初、ほかはすべて頭文字だけ大文字、あとは小文字の「Sound! Euphonium」表記でした。

 シーズン1のこの題字っていうのは「将来なんて言われてもわからないデス」と言っているような久美子にとって、まだ世の中はなにもわからない真っ暗闇で、その中で唯一キラキラと輝いて見えたのがユーフォニアムである……って表現に見える。その輝きに導かれて徐々に成長していく物語が響けユーフォニアムという作品であって。

 で、それと対比してシーズン3のこの題字を見ると、背景は黒じゃなく久美子が歩いていく風景になっていて、文字は揺れずに黒一色、全部大文字になっていて安定感がある。つまり久美子にとってのユーフォニアムは確固たる存在として確立され、その外側にカラフルな世界が広がっている……というような表現に思えちゃう。大人になって、世界のあり方がだんだんと見えてきて、でもその中にユーフォは確たるものとしてある。そんな人物像が、そこに表されているんじゃないかなと。

 そんな風に考えたら早くもこの題字がシーズン3を象徴しているような気がして、感極まってしまった。久美子大人になったよ。良かった。完。傑作。まあ実際そんな側面もあるのでは。

 あと見直したらエモかったのはシーズン2、白背景に黒文字で、これノートに鉛筆書きされた譜面のイメージなんじゃないでしょうか。エンディングの匂わせ。

 題字とは関係ないんだけど、「ようこそ」の冒頭は題字に続いて中学時代の久美子が吹くユーフォニアムのベルの部分からカメラが出ていくような形から物語が始まるんですね。これはベルから出た音が想いとともに響いて物語を紡いでいく、というような演出だと思うんです。それに対してシーズン3のアバンは、終盤でユーフォニアムのベルにカメラが吸い込まれていくような表現で終わる。色々な意味合いがあるし解釈もあり得ると思うんですけど、一つにはこの物語がループする物語である、というのがあるように思いました。誰かの出した音が、誰かに響き、また新たな音を奏でていく。ここもなんか、粋な演出だなあと感じました。

『すずめの戸締まり』感想。(ネタバレあり)

『すずめの戸締まり』、3回観ました。面白い。これまでの新海誠作品で一番好きかもしれない。だからなにかこう、まとまった論考みたいなものを書こうかと思ったんですけど、自分の力量ではまとまり切らなかったです。でもほっとくと気持ちが萎えそうなので、結局雑多に好きなシーンなんかを書き残して置こうと思う。

タイトルコールのあと、鈴芽の部屋に草太が来るでしょ。ちょっとお世辞にも整理されているとは言い難い。アニメ演出で部屋の中はその人の心の内を表しているとか言われますから、割と普通の女の子に見える鈴芽の心の内が、実は荒れている状況が垣間見える。そこで散らばった本を静かに整えて本棚に仕舞う草太の動作が、この後の役割を思わせる。こういう描写が結構好き。

本作のキーアイテムである鈴芽の椅子は脚が3本しかなくて、劇中鈴芽が「気付いたら3本だった」みたいなことを言うけれど、震災の前は4本だったわけだから、椅子は鈴芽自身で、失くした1本は母を代表とする「震災で失ったもの」だろうなあと思う。

鈴芽に限らずこの映画に出てくる登場人物は皆なにかしら欠落を抱えている。鈴芽の叔母、環は劇中でもその心情が吐露されるが、そもそも実の姉を亡くしており、年齢的にはまだ健在でもおかしくない両親も姿が見えない。草太は完璧超人に見えるけど、おじいさんが「育ての親だった」ことから察するに、何らかの事情で両親はいなかったようだし。神戸のスナックのママ、ルミは二児の母でありながら、夫の存在が感じられない。芹沢のスポーツカーは露骨に壊れているし。

愛媛の千果だけはパッと見そういうのがなさそうにも見えるんだけど、逆に考えると「同世代の友達がいない」のがそれかもしれない。後ろ戸になってしまった学校に通ってたと語っているので、廃校になって散り散りになってしまったとか。そうだとすると、鈴芽に異常に執着するのも辻褄が合うというか。

鈴芽の椅子の脚が3本なのは、こうした登場人物たちの「皆なにかしらの欠落を抱えている」ことの象徴ではないかとも思うんですよね。

その中でも大きめの欠落を抱えているのがやはり鈴芽で。「君は死ぬのが怖くないのか!?」の問いに、食い気味で「怖くない!」と答えるシーン。あそこはなんか、その欠落を物語ってて凄味を感じたなあ。その後に語られる、生きるか死ぬかなんて運がいいか悪いかでしかない、って台詞も合わせて考えると、眼の前で人が死に、なおかつ自分と相手が入れ替わってても何らおかしくない、そんな状況がたくさんあったんじゃないか。そしてまた、その人達の死に責任を感じていて、誰かの命を救うことでその贖罪を果たそうとしているような。

そうした欠落を、旅を通じて、様々な人に出会い、愛情を受けることで埋めていく物語だと思う。

これはちょっとこじつけかもしれないですけど、椅子との関わり方も、旅の途中で少しずつ変化していっているのが面白い。愛媛ではそばにいるだけだったのが、神戸では座り、東京では足場にしてる。椅子は座られるためにあるけど、最初はその正式な用途になく、神戸でようやく正しい使われ方をする=関係性が成熟する。とは言え子供用の椅子だから、子供が成長してしまったら本来の用途は失われ、少し背伸びするための足場になる、というような。

東京での川に飛び込むシーンも気合いの入った作画で素晴らしかった。あそこのシーン、橋の上に残る靴は女子高生としての自分を脱ぎ捨てた瞬間で。東京の上空でやらされるのは、イニシエーション、通過儀礼ですよね。大勢の人の命と草太の命を天秤にかけて、草太を犠牲にした……ようにも見えるけど、別に挿さなくても草太が助かるわけじゃなくて。あそこでやらされたのは、草太が要石になっているという現実を受け入れた。と同時に、あの椅子は母の形見でもあるわけですから、母がもう帰ってこないという現実とも向き合わされている気がします。

通過儀礼は水に飛び込むことで生まれ直すわけですが、ここでは水中に落ちるまでは少し間があり、だからこそ靴が片方ずつ脱げていて、それは儀式の始まりと終わりを表しているんじゃないでしょうか。

東京を出るとき、鈴芽が草太の靴を借りますよね。あれは今まで椅子だった草太が、靴に変わった(また踏まれてる)。椅子はその場で背中を支えるアイテムだけど、靴は遠くまで歩くための相棒なので、鈴芽が成長し自分の脚で歩けるようになっていて、草太はそのサポートをしている、という感じに見える。また身につけるものでもあるから、一体化しているとも取れる。母の形見であった椅子に草太が乗り移って、母=草太となり、草太の形見(?)である靴を鈴芽が履くことで母=草太=鈴芽となり、最後に母(と誤認された鈴芽)から幼少期の鈴芽に椅子が渡され、円環になっているのも面白いなと思った。

ここの髪を縛る仕草もカッコ良かったな。臨・戦・態・勢! という感じで。要石をぶっ刺した瞬間に髪がほどけるのも良かったです。

環の話。鈴芽の叔母さん、中盤で鈴芽に暴言を吐くシーンがあって、そのあとわだかまりが消えて和解する、みたいな流れになる。このキャラに対して、言っていいことと悪いことがあるだろう、許せんみたいに言われてるのとかもみたんだけど、振り返ってみると、これ我々だよなーと言う気もするんですよ。世代的にも近いし、軽率にも鈴芽に「うちの子になろう」なんて言ってしまうんだけど、あの震災の時、地震津波もそうだけど、原発事故が起きて、福島の原発は東京の電力を担ってるってわかって、東京に住んでた私は責任を感じたりしたんですよ。で、なんだか申し訳ないような気にもなり、できることはなんでもしてやりたいなんて思った。でも時間が経つとそう言う気持ちも忘れてしまって、日々生きることに必死で、そうした我々の一部は心無い言葉を発してしまったりする、そんなことはきっとあっただろうなって思う。なにか理由があったからと言って、言っていいことと悪いことがあるのはその通りだし、環の発言はその境界を超えているかもしれない。許されないし、責められるべきとも思う。けど、それだけじゃないと言うのもまた本当なんだろうなって。

この辺は「忘却に抗う」という、『君の名は。』であったテーゼが継続しているとも思うな。

最後にタイトルの話。珍しくキャラの名前が入ってて。そもそもなんで主人公の名前が「すずめ」なんだろうと。

めちゃくちゃ序盤の話に戻るんですけど、一番最初の環との会話。「鈴芽、起きた?」「鈴芽、今日はお弁当忘れんでね」「鈴芽、私今夜ちょっと遅なるわ」と、毎回鈴芽、鈴芽と付く。ここのシーンって別に他のキャラいないから、つけなくても通じると思うんですよ。ダイジンも毎回最初に「鈴芽」って呼びかけからスタートします。

全編観たあとに、ああそうか、と一人納得してしまった。

「すずめ」と「すすめ」がかけられているんだと。だから「すずめ」と声に出すことが重要視されているし、タイトルの『すずめ』はひらがななんだなと。いや、主人公の名前はアメノウズメから取った、とパンフには書いてあるんですけど。ダブルミーニングということもあるしw

君の名は。』の頃はまだ5年で、「こうだったらよかった」というような、ifの世界の物語で、鎮魂と祈りの物語という感じでしたけど。震災から来年で12年。法要としては一区切りです。相変わらず傷は癒えない。震災以外にも色々なことがありました。でも、多くの人はなんらかの欠落を抱えたまま、それでも日々を生き、ちゃんと大人になっている。だから我々も、みんなも、前に進みましょう。そういうメッセージが込められている作品なんじゃないかなあと。そんなことを思いました。

Cycloneは歩いて逃げられるのか

ゲームの攻略メモです。

ドルイドのCycloneは歩いて避けられるのか?
こういうの、正確に把握しておくと自信持って動けるようになるかなと思って、計算してみました。

Cycloneはこんな性能です。

Cyclone

以前歩く速度を調べたら、1秒間で7.06ydという結果でした。

Cycloneは1.7秒キャストなので、キャスト中に歩ける距離は 7.06 × 1.7 = 12yd となります。レンジは20ydなので、 20-12 で、8yd以上離れていて、真っ直ぐ逃げればレンジ外に出ることができそうです。

バックペダルの場合は移動速度64%なので、7.06 × 1.7 × 0.64 = 7.68yd となり、20-7.68で、12.32yd離れていればレンジ外に出られます。

でも実戦だと真っ直ぐ逃げるのは難しいこともありますよね。近づいてしまうのは論外だとしても、真横に向かって逃げた場合はどうなるでしょう?

20ydの半径を持つ円から外に出たいとして、相手と自分とをつないだ線から、直角に伸ばした線が12ydになるような距離はいくつになるのか。
下のような図にしてみました。

Cycloneから逃げる図

移動距離が12yd以下になるようなxの値、というと、16yd以上となりそうです。16yd離れているなら、最悪でも敵に近付かない方向に歩いていればレンジ外に出られます。

結構離れてないとだめですね……。これは最悪のケースなので、実際にはもう少し近くでも大丈夫かもしれませんが、できるだけちゃんと離れる方向に動くのは大事になりそうです。

Polymorphに代表される、他の一般的な、叩けば壊れるCCは、レンジが30ydなのでかなり苦しいかもしれません。真横に逃げても避けられるのは28ydぐらいからです。

相手のHasteでキャスト時間は短くなりますが、こちらの移動速度も上がっているので相対的には大きな差はなさそうです。

『メタモルフォーゼの縁側』感想。

17歳の地味目でマンガ好きな、ちょっとオタク気質のある女の子、佐山うらら(芦田愛菜)と、3年前に夫を亡くし生きがいを見失っていた75歳の老婦人、市野井雪(宮本信子)が、BLマンガをきっかけに出会い、仲良くなっていく、という物語。

もうめちゃくちゃに良くて、週末土曜日に観に行って、すぐ後に原作全5巻を購入・読破し、翌日無性にもう一度観たくなって、いそいそとレイトショーに出掛けてしまったぐらいハマってしまいました。

前後の Twitter はこんな感じでした。


芦田愛菜宮本信子の演技が本当に素晴らしくて、この二人の楽しげな会話をずっと観ていたかった。舞台に池袋がよく出てきて、若い頃はジュンク堂書店とかよく行ったから、個人的にはあの辺の景色が出てくるのもエモかったですね。

以下少しネタバレ。

演出の話。予告でも冒頭に少し挟まりますけど、落書きをゴシゴシって感じでうち消して、あとから進路調査票だったことに気付いてさらに修正テープで消す、みたいなところがある。あれは原作にはない演出ですけど、進路が決まっておらず、深層心理ではなんとなくマンガ家どうかなーと思ってるんだけど、いやいや無理でしょそんなのとうち消している、そんな感じですよね。

原作では意識してそうしているんだと思うんですけど、この作品は「夢はマンガ家!」みたいなわかりやすいゴールは避けて描いてて、あくまでも初期衝動を丁寧に描いている感じがして、それがとてもいい。別にそれで食っていけなくったって、やってみたいと思ったらやっていいんだよね。まあでも映画だと尺の制約も厳しいから、ちょっとわかりやすい表現になって、上述したような表現になったのかなって。商業的な成功はゴールじゃなくて、メルカリでマンガ家セット買って、小包開くじゃないですか、あそこがゴールだよなって。だからコメダ先生と重ねて描かれるわけで。商業でも同人でも、描くという行為自体は等価ですよと。それでもちゃんと本を作るまで行っちゃうんだから偉いですよね。

あとやっぱり走りがね、良かったです。やりたいこと、やるべきことが見つかった瞬間、溜まってたエネルギーが弾ける、そういう描写だと思うんですけど。

終盤、紡が滑り台の上にいるじゃないですか。最初、あそこ異様なシーンだと思って。あのサイズの男子があの遊具に乗るのちょっと無理があるような感じを受けたんですよ。イケメンだし。で、なんでかなって思ったんだけど、あそこ、うららが紡を見上げていた、という演出なんですかね? ずっと遠い世界にいて、なんか高い場所を見上げるように見ていた紡が、自分と同じように悩んだり、ビビったりしてたってことに気付いて、なんだ同じじゃんって。それで、地面に、自分と同じ目の高さまで降りてきて、自分はそういう、迷ってるときに、雪さんに背中を押してもらったから、同じようにしてあげなきゃって、紡の手を引いて走り出す。そんな風に見えて。

芦田愛菜、大好きになってしまった。

ちなみにうららが紡を送っていったのは京急蒲田駅で、非常によく利用する駅なので、あのシーンの場所を確認しに行ってしまった。完全に野暮な話をするとうららが走る先にあるのは普通電車の乗り場なので、品川に行くには20分ぐらい多く掛かることになり、普通に乗り継ぎミスですねw

犬王ネタバレ感想

映画犬王、2回観てて、じんわり良くなって来ちゃって、また行きたくなって来てるんですけど。そんな中で、友魚はいったい誰なんだろう、みたいなことを考えてて。

設定的には、犬王は実在の人物がモデルですが、こちらは実在せず、この物語の主人公で、犬王のバディ、といった感じですよね。

自分はこのキャラクター、視聴者である我々を憑依させるための、依り代なんじゃないかと思ってて。琵琶法師自体が、平家の物語を語るために、誰かの視点を憑依させる存在だったりするので。我々は友魚に乗り移ることで、犬王の人生を見届けていくと。そういう物語なんじゃないかなと思います。だから友魚(友有)が六条河原で打首にされると、そこで室町時代の物語が終わってしまう。

現代人が琵琶法師に乗り移るとなると、琵琶がギターに見立てられるのは割と自然な流れかなーと。ロックと言うのは我々に取って、もっとも身近なポピュラー・ミュージックでもありますし。室町時代に犬王がやってた演目は、当時の庶民にとって、そういう位置づけのものでしたよ、という受け取り方もできる。我々が憑依した友魚は犬王と出会い、お互いに影響されながらロックスターの座に上り詰めていった、でも犬王の演目は永遠に失われてしまっているので、本当のところはわかっていない、みたいな構図。ちょっとループものSFっぽい。

そう考えたときのラスト、スタッフロールに入っていく流れが好きで。六条河原の橋の上、星空の下、600年の時を超えて、犬王と友魚は再び出会う。二人は子供の頃の姿に戻り、友魚が琵琶をかき鳴らすと和楽器のセッションが始まり、スタッフロールが始まる。イントロを抜けるとブルースハープ、ドラム、ピアノ、ヴァイオリン、ギターと様々な楽器が入ってきて、現代ポップミュージックになる。それがまた後半になると、和太鼓・笛・尺八と和楽器が入ってきて、最後は琵琶で締める。

これを読み解くと、星空はたった600年程度では変わらないものの象徴、ギターやドラム、ピアノ、ヴァイオリンなんかは現代の我々の象徴とすると、六条河原は処刑場で、平家の一門も罪人としてさらし首にされた場所ですから、和の楽器は六条河原に集まっていた平家一門の亡霊がセッションに加わって来たようにも見える。そう考えると平家一門と我々現代人が憑依しているところの友魚、それから室町の犬王とが、一緒になってセッションしているような情景に思えてくる。笛を吹いているのは敦盛なんじゃないか、とか。

それはつまり、これを語り継いで行くのが、友魚に憑依した我々現代人の役割だ、みたいなメッセージにも思えてくるんですよね。だからやっぱり、こちらも『平家物語』同様、「確かに生きた人たちの、大切な物語」を語り継ぐ、鎮魂の物語なんじゃないでしょうか。そしてまた『平家物語』も観たくなる。

600年、あるいは800年も前に生きていた人に思いを馳せ、憐れんだり、共感したりできるのは、豊かなことだなあと思う。そうした気持ちにさせてくれる、いい映画だと思います。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝の好きなシーン

金曜ロードショーヴァイオレット・エヴァーガーデンをやるっていうので、みんなヴァイオレットの話をしだして、自分もなんか好きなシーンを語りたくなったので。

私は劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンも何回も観に行ったんですけど、やっぱ外伝が好きなんですよねー。
で、その外伝でも一番好きなシーンは、エイミーの過去回想で、テイラーと出会うところ。


「お母さんは?」
雪の中でうずくまるテイラーに、声をかけるエイミー。
周りを見回すも母親らしき姿はない。
嘆息するエイミーの手を、そっと握るテイラー。
しゃがんで目線を合わせると、そこにひとひらの雪が落ちてきて、手の上ですっと溶ける。


テイラーの手のぬくもりを端的に伝える印象的なシーンですが、同時に雪というのはヴァイオレット・エヴァーガーデンにおいて重要なモチーフでして。

主題歌の曲名が「Violet Snow」ですよね。
最初にアニメ化するとき、作品全体をイメージして作られた楽曲がこれなんだとか。
www.youtube.com

つまりヴァイオレットのイメージが雪である、というのは作品を通して維持されるテーマで、だからTV版最終回でも、劇場版でもエピローグ手前で雪が降る。
その雪を使った演出が、外伝ではここなんじゃないかなーとか思ってます。

エイミーとテイラーの間に落ちた雪が、つかんだ手の上に染み込み、二人をつなぐ。
この物語のスタートとも言える二人の出会いを表す重要なシーンですが、同時にその後の二人と、この物語の行く末までをも暗示しているようで、とても美しいシーンだと思います。

平家物語観てます。

FODで平家物語観てます。

1話は無料で観られるので皆様もぜひ。
fod.fujitv.co.jp

監督山田尚子、脚本吉田玲子、音楽牛尾憲輔、エンディングテーマにスチャダラANI……と私の好きなもののごった煮みたいになっててたまらん。一生モノのアニメになりそう。

今は3話まで観たところ。毎回観ていて全シーン心地よく、これはリズと青い鳥と同じ感覚だな、山田尚子が戻ってきたぞ、という感じで。感無量です。

1話で気になった話。

オープニングの題字のあたりのシーン、tsunさんがおっしゃってましたが、フィルムに見立てた演出なんじゃないかとのこと。


なるほどなーと思った。
個人的には題字の水色の部分、感光する演出のときの色がオレンジになってて、これ重盛とびわの目の色と同じだったりするのかなーと思ってたりします。
びわは右目(水色)で未来を見、重盛は左目(オレンジ)で亡き者(過去)を見る。未来と過去で対比になっていながら、実は同じものを表しているといったような意味付けじゃないか。

あと自分で書いたやつなんですけど。


後で考えたら、びわと武士が入れ替わっている、つまりびわと武士は同じものであり、”お父”を殺したのは武士であるが、びわでもある、ということなんじゃないかな。
この物語は大人になったびわが、琵琶法師として平家の物語を語る構造になっていて、視点人物は大人びわなんで。ここでびわと武士が重ねられるのは、大人になったびわが、お父を殺したのは自分だ、と認識しているということなのではないかと。

平家のやつらが殺した、と恨みに思う面もありつつ、自分が余計なことをしたばかりに、と気に病んでいる部分もあって、これからそういう描写が出てきたりするんじゃないかな。ちょっとこじつけ気味かもしれませんが。

そんな感じ。先も楽しみだけど、とにかく今は、この座組での新作が観れるということが嬉しいです。
またなにか思ったこととかあったら書きます。